俺たちに明日はない、こともない。

こっちと向こうと今と昔と。

大竹伸朗 ビル景 1978-2019へ

 

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水戸芸術館全景。かっこいいな。


先日休みを利用して水戸芸術館へ出かけた。

大竹伸朗 ビル景 1978-2019 

を見るため。

 

彼の作品を直に目にするのは

2006年に木場の現代美術館で開催された「全景」展

以来だから13年ぶりだ。

(あのときは展覧会カタログを申し込んだものの刊行が

遅れに遅れて、いつでるのか、また延期か、これはもう

永遠に出ないんじゃないか、なんてやきもきしていたことを

思い出す。)



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できれば飛び込みたい、いう衝動。

 

端的に言って私は彼の表現のぶっきらぼうに見えるところ、

エネルギッシュなところに惹かれるのだと思う。

表現された内容と表現する姿勢をひとまず区別した上で。

 

 

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これだけ見ると大人しく感じられますがそーではありません。

 

 

展覧会全体を見ればたちどころに分かることだが、

まず作品の数が多い。

数が多い、というのはそれだけでかなり重要なことだ。

そして個々の作品に目を転じればその熱量が半端ない。

「黙って見ろ」とは言われないけれど、

作品を前にすると言葉になる以前のいろいろなモノがこちらの中に

渦巻いてくるのが感じられる。

線や色彩やタッチに目を奪われ気が付けばこちらが丸ごともって

いかれる。

降ろしっぱなしの錨を上げた船が勝手に波間に漂う体で

流されていく自分が「自由」を味わうということは

逆説でもなんでもなくて

よーするに「気持ちいい」。

それはアーチストのエネルギーがこちらに及ぶということの

現れのひとつであるんだろうけど

それに加えて

あー、こーゆーの描けると後がすっきりするだろうな、

と勝手に想像し、

なんだか自分でもそれを味わいたい、やってみたい

と思いはじめるばかりでなく

できるんじゃないか、などという気がしてくるのも

ありがたいことだ。

別に勘違いであろうがなかろうが、

そんなことはどうでもよくて

動かされるということもそれによって景色が変わることを思えば

大切な一歩だろう。

景色が変われば見るということに跳ね返ってもくる。

 

 

ところで

アウトサイダーアート」という言葉(アールブリュットという

言い方の方が好きだけど)があるけれどもあれはいったい

何なんだろう。

勿論歴史的にはそう名付けられた時点で

それなりの意義があったのだろう。

「正規の美術教育を受けていない」

とか

「精神的にハンディキャップがある」

等の意味を含んでいるらしいけれど

「アウトサイド」と「インサイド」を区別し線引きすることが不自由だと

思う。

それでも敢えて、ここでいう「アウトサイダー」に適合するものは

何だろうと

ビールを飲みつつ、うつらうつら考えていたら

アウトサイダー」って

「サラリーマン」

の別名ではないか、

という考えが浮かんで何だか愉快になった。

(そっちの方が私にピンときた、というだけ。)

というわけで

牽強付会的に言えば

サラリーマンである私(あと10年いられるかな)も

アーチストを目指すことにしようか。

 

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常陸野ブルーイング水戸」にてハンバーガーとヴァイツェン。うま!